2023年7月30日説教「貪 欲」松本敏之牧師
出エジプト記20章17節
ルカによる福音書19章1~10節
(1)むさぼってはならない
十戒を共に読んできましたが、今日はその最後の第十戒について学びましょう。
「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。」出20:17
そういう言葉です。以前の口語訳聖書では「むさぼってはならない」という訳でした。「欲する」というよりも「むさぼる」という日本語の方が、私たちの心の奥底にひそむ思いをよく表しているように感じます。もちろん言わんとするところは同じです。
十戒の後半、象徴的な言い方をすれば、二枚の板のうちの二枚目の板は、隣人に関する事柄でありました。第六戒、第七戒、第八戒は、「殺人、姦淫、盗み」という具体的「行為」に現れた罪に関係がありました。第九戒は、「偽証」という言葉に関係がありました。そういう言い方をすれば、この第十戒は、「貪欲」という私たちの「心のありよう」「精神」に関係があると言うことができようかと思います。
『ハイデルベルク信仰問答』は、この第十戒について、このように述べています。
問113 第十戒では、何が求められていますか。
答 神の戒めのどれか一つにでも逆らうような
ほんのささいな欲望や思いも、
もはや決してわたしたちの心に
入り込ませないようにするということ。
かえって、わたしたちが、
あらゆる罪には心から絶えず敵対し、
あらゆる義を慕い求めるようになる、ということです。
「殺人」「姦淫」「盗み」のような具体的行為でなくても、私たちは罪なしとは言えないということを、この第十戒は示しています。宗教改革者カルヴァンは、「この律法は、外面的なものではなく、私たちの魂に関わっている」と言いました。十戒は最後の最後で、私たちの心の奥底に潜む罪にまで、目を向けるのです。
(2)罪の根源は貪欲
そもそも人間の罪がどこから始まるのかと考えますと、私はやはり貪欲ではないかと思います。そのことを最もよく象徴的に表しているのは、創世記第3章のアダムとエバの物語でしょう。蛇がやって来て、女に向かって、「神は本当に、園のどの木からも食べてはいけないと言ったのか」(創世記3:1)と問います。
蛇は神様の言われたことを歪曲し、神様の禁止を誇張して、彼女の神様への信頼を揺さぶります。最初、彼女はそれを否定します。「いいえ、神様は園のどの木からも食べてはいけない、なんておっしゃっていません。」
「私たちは、園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです。」創世記3:2~3
しかし蛇は巧みに女の貪欲をくすぐります。
「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」創世記3:4~5
そういうふうに彼女をそそのかしました。「食べてはいけない」と言われているものを食べてみたい。そういう人間の欲望がよく現れていると思いますし、同時に、「神のように賢くなりたい」という欲望もここに現れています。女に続いてアダムも食べました。彼も同じように、貪欲をかき立てられたのです。そしてそうしたことが、聖書を通じて、その後も次から次へと折り重なっていきます。私たちの罪の現実を見せつけられるような思いがいたします。欲望には際限がありません。
(3)欲したものを手に入れる
もちろんこの戒めは、私たちの心の中の状態のことだけを言っているのではありません。行為に直結しています。「むさぼってはならない」の元のヘブライ語、ハーマドという言葉は、何かが欲しいと思ったら、それを実現していこうとする行為をも含んでいるということです。シュタム・アンドリュウという人は、こう解説しています。
「ハーマドは衝動的な意志として『欲する』を意味するだけでなく、欲したものを所有するにいたる陰謀をも含む。それゆえ、第十戒が本来意味したところによれば、それは単に、意志に対してむけられているだけでなく、同時に、隣人の財産を得るために人が用いる暴力的陰謀にも向けられている。」シュタム・アンドリュウ『十戒』
人が持っているものを自分のものにしたい。力をもっている者は、その力を用いて何でも自分のものにしていこうとする。これまでも、十戒を学ぶ中で、ダビデがウリヤの妻バトシェバを自分のものにした罪(サムエル下11章)について述べました。しかし出発点として、この「むさぼってはならない」という戒めに反したことを忘れてはならないでしょう。また「ナボトのぶどう畑を手に入れたい」というあのアハブ王の思い(列王記上21章)も同じくここにつながってくるものです。
(4)極端な富の偏り
近年のニュースでは、大手の電気自動車会社の社長が、ツイッター社の株を大幅取得して自分のものにし社名まで変更したとか、あるIT企業が別のIT産業と手を組んで競争に負けないように巨大化していくとか、巨大なマネーゲームのような報道が、刻一刻と目に飛び込んできます。私には想像もつかない金額の世界ですし、善し悪しをいう知識も持ち合わせていませんが、何だか資本主義の恐ろしさというものをまざまざと見せつけられる思いがしています。食うか食われるか。こうしたことが、国内でも国際舞台でも、弱い者をどんどん食いつぶしてきたのでしょうか。
また「セレブ」という言葉を耳にします。庶民とは違う、選ばれたお金持ちというような意味で使われているようです。バラエティー番組では、そうした「セレブ」の超ぜいたくな生活ぶり、超ぜいたくな買物ぶりを見せつけて、「庶民」の羨望をかき立てます。
しかしその一方で、ウクライナ戦争のニュースがあり、ミャンマーの軍事政権による民主化運動の押さえつけ、トルコの大地震で大勢の人がなくなっているという報道がなされる。アジアやアフリカの極度の貧困の状況、貧困ゆえに拡大した自然災害の被害。あるいはあまりニュースにはなってはいませんが、スーダン、南スーダンなどアフリカでも激しい紛争が起こっています。
この不釣合い、アンバランス。この二つを並べて見る時に、私は富の極度の偏り、自分のために極端に浪費的にお金を用いるということは、それがどんなに合法的であったとしても、人にとやかく言われる筋合いがなかったにしても、やっぱり罪だということを思わざるを得ないのです。
いや実は、この二つは無関係なのではなく、共に人間の貪欲から生み出される世界の表と裏だと言えるのではないでしょうか。「セレブ」の世界を作り上げ、それを維持したり、羨望したりすることが、もう一方で、極度の貧困や戦争やテロを、直接的、間接的にもたらしているのです。
イエス様は、「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである」(ルカ12:15)と言われました。
(5)原子力と「むさぼり」
石巻栄光教会の川上直哉牧師は、この第十戒の解説で、「原子力とむさぼり」ということを指摘しておられます。
「福島第一原子力発電所の爆発事故の後、『ポスト・フクシマ』という時代を生きていたはずの私たちは、すでに2011年以来、『むさぼるな』という神さまの戒めの声をはっきりと聞いてきたのではなかったでしょうか。……原発と原爆は表裏一体の関係にあります。『もっと、もっと』という欲望が、核エネルギーを人類の手元へと引き寄せました。そして、その過程において、太平洋の島々に、矛盾と不条理をしわ寄せした。でも、私たちはそれに気づかず、安全で快適な生活を『もっと、もっと』とむさぼった。そしていつか原発ができた。その立地町村を引き裂きながら。そして「ウリヤの到来」となった(ウリヤとはダビデが奪った女性バトシェバの夫の名前です)。『3・11』です。2011年3月12日から15日にかけ、原発は爆発をした。」
うがった見方であると思います。
(6)高木仁三郎さんの警告
誰よりも早く、原発専門の科学者として、核の危険性を訴え、原発に反対し続け、2000年に亡くなった高木仁三郎さんは、クリスチャンではありませんでしたが、天地創造に関して興味深いことを述べておられます。
「天と地は別々の原理法則で動く世界として存在する。地上には地上の世界がある。両者は全く別の法則の下にある。そこには厳然たる区別がある。それは冒されてはならない。」そう述べて、こう続けます。
「原子力というのは、本来の地上世界にとっての異物を導入して原子力の安定を破壊し、そのことによって非地上的な(天文学的な)までの力を得ようとする技術である。それは本質的に地上の生命世界の原理とは相いれず、その非和解的衝突を私たちは、広島、長崎、そしてチェルノブイリにおいて典型的に見ているのである。」
これは1987年頃の高木仁三郎さんが述べたことですが、私たちは、ここに福島を付け加えなければならないでしょう。そしてこう述べるのです。
「このようにみれば、核(原子力)開発は、文字通りプロメテウスのごとく天の火を盗む行為であり、禁断の行為であったはずである。」富阪キリスト教センター編『エコロジーとキリスト教』21~24頁参照
この言葉に私ははっといたしました。それは地上世界にないものを欲する行為です。天にしか存在しえないものを地上に持ち込もうと欲するならば、それは死を招くのです。神様がアダムとエバに「園の中央の木からだけは食べてはならない。死んではいけないから」と言われた命令、そして忠告に反するものです。
私はこの第十戒「隣人の家を欲してはならない。隣人のものを、一切欲してはならない」という言葉は、「自分のものではないものを欲してはならない」というふうに広く解釈することができるのではないかと思います。それは元来、神が地上世界には造らなかったものに手を伸ばし、「神のようになりたい」という人間の欲望に基づく行為であるように思うのです。
(7)ザアカイ
今日は、ルカ福音書の19章のザアカイの話を読んでいただきました。このザアカイという人も、欲望が留まることを知らないで、貧しい人からお金を巻き上げて、自分の財産を蓄え、自分を肥やしていく人生を送っていました。しかしそこで彼は決してそういう状態をよしとはしていませんでした。幾らお金をもっても満たされない。何か欠けている。友人がいない。いざという時に、自分を助けてくれそうな人は誰もいない。そうしたことで寂しい思いをしていました。そこへイエス様がやってきて、声をかけられるのです。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」ルカ19:5
ザアカイは喜んでイエス様を迎えて、そこから生き方が変わっていくのです。ザアカイは、イエス様を自分の家へ迎えた後に言いました。
「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します。」ルカ19:8
これは、いわばザアカイの信仰告白と言えるのではないでしょうか。イエス・キリストによって新しい生き方を示された。生き方の転換です。イエス・キリストは「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」(ルカ19:9)と祝福されました。彼の財産は、よりよい形で、本当に深い形で、最も意味ある形で生かされる道がここにひらけているのです。
(8)貧しくもせず、富ませもせず
箴言にこういう言葉があります。私も好きな言葉であります。
「私は二つのことをあなたに願います。
私が死ぬまで、それらを拒まないでください。
空しいものや偽りの言葉を私から遠ざけ
貧しくもせず、富ませもせず
私にふさわしい食物で私を養ってください。
私が満ち足り、あなたを否んで
『主とは何者か』と言わないために。
貧しさのゆえに盗み、神の名を汚さないために。」
箴言30:7~9
お金持ちになったらなったで、「主とは何者か」というおごり高ぶることがあって、信仰から離れてしまうことがあるかも知れない。逆にあまりにも貧しくても、盗みをして、神様の名を汚すかも知れない。だから「貧しくもせず、富ませもせず、私にふさわしい食物で、私を養ってください」と祈るのです。
神様は、私たちが今こそ謙虚に、足ることを知って、人と共に生きる道、分かち合う道というものを求め、イエス様も、私たちがその道を歩むようにと、促しておられるのではないでしょうか。隣人のために、隣人が本当に生きる道を、私たちも考えて過ごしていきましょう。分かち合いに生きることによってこそ、隣人と、そして神様の豊かな交わりの中に入ることができるのです。
何より、イエス・キリストご自身がそのように謙虚なお方でありました。最後に味わい深いパウロの言葉を紹介します。
「主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。」コリント二8:9